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母が自殺未遂!? うちの家族~母編~の件

どもモヒモヒです。

今日は、もうすぐ母の日という事なのでウチのママ(ウチは幼少の頃から母をママと呼ぶ)の事を書く。

ウチのママ(母)は、若い頃それはお嬢様だったらしく、アノ時代に家にTVも普通にあったそうだ。
TVを見に沢山の近所の人が家に来るのを見て、なんでこの人達は家に来るんだろう?
と不思議に思っていたんだと。

高校を卒業して、ドレスメーカー学院、いわゆるドレメに入学し、青春を謳歌していたらしい。
遊んでばかりいたので、成績は悪く、卒業課題を再提出してやっと卒業したという。

その後は、就職もせず、今で言う、家事手伝いをしていた。

母に聞くと当時は相当遊んでいたらしく、いろいろな男の人と付き合っていたという。

俺が高校生の時に、もっといろんな子と付き合って遊んだほうが良いと謎のアドバイスを受けた。

性格は、明るく、サッパリしているので、よく近所の女の子の相談相手になっていた。

いとこの女の子(当時中学生)の恋愛相談に、若いんだからいろんな人と付き合ったほうが良いと俺と同じアドバイスをしていたり、買い物なども頻繁に行って元気な母だった。
親父との出会いは、母が別の彼氏と付き合っていて、親父も別の彼女と付き合っていた時に友人として知り合い、母は当時の彼と別れ、親父は彼女に捨てられ2人ともフリーになっている時に付き合う事になったという。

その後、2人はすぐ結婚した。

しかし母は世間知らずのお嬢様なので結婚当初はうまくいかなかったらしい。

親父が給料を母に渡すと、1日で使い切った事がある。

母は次の日に親父に今日の給料は?と聞いた。

母は、働いた事が無かったので、給料は月に一度という事を知らず、毎日貰えるものだと本気で思っていたらしい。


押し売りを断られず、いろんな物を購入して親父が後で解約したり、いろいろ大変だったみたい。

どんだけ世間知らずなんだよ…

結婚当初は練馬のマンションに住んでいたのだが、祖父の勧めもあり、茨城に一戸建てを購入した。

若くして結婚したが、子供がぜんぜんできず、兄が生まれたのは、結婚から8年経った時だった。
兄が生まれてからすぐ2年後に俺が生まれた。

母は昔は教育ママだったらしく、兄には水泳教室、英会話教室など通わせていた。

しかし俺が生まれ、親父の会社を手伝い始めてから時間的に余裕がなくなり、教育ママは辞めたという。

俺が幼い頃から父の会社に手伝いに行っていたので、俺は幼稚園からカギっ子だった。
朝起きて、母にお金を貰い、俺だけ先に家を出る。
家の近くのコンビニ(昔は商店)でピクニックという名のジュース(コーヒー牛乳)1本と菓子パンを買う。
そしてそのコンビニの前で母と待ち合わせ。
コンビニから駅へ母と一緒に行くが、駅と幼稚園の分かれ道で母とは別れる。

母は出勤し、俺は幼稚園へ。

幼稚園につくと時間的に少し早くいつも誰もいなかったのを覚えている。

親父の会社が倒産する小学校3年まで母は親父の会社を手伝いに行き、いつも家を留守にしていた。

俺は結構悪い子で、勉強はやらず、親のサイフからお金を盗んだり、隣町まで自転車で冒険して帰るのが遅かったり、夜中家を抜け出して遊んだりしていた。

母は、あの頃は、家を留守にしていて寂しい思いをさせていたと今は言う。

しかし、俺はただトムソーヤに憧れていただけだ。

親父の会社が倒産し、母は夜、居酒屋というかスナックへ勤め始めた。

母は仕事は夜遅く、2時過ぎに帰宅、昼頃に起きてくる生活だった。

親父は朝早く、2日毎しか帰ってこない。

しかし俺はグレる事もなく(多少は不良っぽい事もしていた)、18歳まで地元で育つ。
俺は18歳の頃、専門学校に入学。最初の2ヶ月は実家から通っていたが、2ヶ月後には一人暮らしを始める。

学校へは実家から1時間半くらいなので通えない距離では無いのだが、地元になにも無くつまらなかった事と早く一人で生活したかった。

母はあの時上京させなければ良かったと今でも後悔している。

高校に入りすぐバイトをしていたのでいくらか貯金はあったが家を借りるお金はほとんど親に出してもらった。
仕送りは無い代わりに食材が毎月届いた。

バイトをしながら家賃を払い、演劇やミュージカルの勉強をしていたが、そこは学生なので、熱心というわけにはいかず遊びまくっていた。
麻雀ざんまいの専門時代。
仲間の中で一人暮らしは珍しく、すぐたまり場になった。
多い時には、ワンルームロフト付きの俺部屋に16人の友人が遊びに来るという事もあった。

その後、俺と兄が専門学校卒業し兄と二人で住む事に。

この時、我が家で大きな事件が起きる。

母が自殺未遂をしたのだ。

原因は、それまで働きづめだったが、仕事を辞めた事、兄弟2人が独立し家に誰もいなくなった事、更年期障害、そして、当時俺がいろいろなところから借金をしており、実家にも頻繁に催促の電話がかかっていて俺の事が心配だった事や、
急に何もやる事がなくなった事など様々な理由でで不安を覚え、欝病になってしまった。

その日の直前に母の調子が悪いと連絡を受けていたが、俺と兄と親父は風邪かなにかと思っていた。

自殺未遂の日、親父は近所の祖母の家にお遊びに行っていた。
当然家に誰もおらず、母は何を思ったのか、突然、死のうと思い、トレーニング用のゴムチューブを家の柱(欄間)にかけ、首をつろうと自殺未遂をした。

タイミング良く、首をつっているところへ親父が帰宅し最悪の事態にはならなかった。

その後、半年間は言葉もロクにしゃべれず、目が定まらず、何をするわけでもなくただボーっとしている母がいた。

父は会社を休み、母の生活を見守った。

薬を飲み始めて半年後、急にしゃべるようになり、元の母に戻った。
母は欝病になる1ヶ月前から7ヶ月の記憶がまったくなかった。
自分が自殺しようとした事も、うつ病の時に私としゃべった事も。

薬を飲み始めて一年後、少し当時の記憶が戻ってきた。
母は、その日自分は誰も必要とされていないとかも。という事を考えていたら、
なぜか、死ななきゃいけないと思いはじめ、踏み切りの近くまで行き戻ってきたりしたが、電車の事故だと家族に迷惑がかかる。という理由で首を吊ろうと思ったらしい。
ゴムのロープなので、当然伸びるし、うまくやらないとづれるので、台を置いたり、
紐を短くしたりしている時に親父が帰ってきて助かった。

今も薬を飲み続けているが、記憶をなくすという重大なうつ病はでていない。
確かに、いつ治るかわからないし、また自殺を起こすのかも知れないという不安は正直、今でも私の家族はもっている。

欝病=自殺

と結びつける人も多いかもしれない。

しかしサポートしていれば、いつか治る病気だ。

そんな体調の悪い母に更なる不幸が訪れる。

突発性血小板紫斑病を患った。

難病指定の病気だ。
出血を止める血小板が減少して止血されにくくなるため、出血した場合に紫の斑点が皮膚に出来る病気。

血小板が50000以下だと非常に危険と言われているが母は2000しかなかった。
現在は、投薬による通院を余儀なくしている。
ステロイド系の薬品なので、細かった母は太ってしまった。

そして長年の喫煙により閉塞性肺疾患も患ってしまう。

兄が結婚し、子供が生まれたあたりでうつ病はほぼ完治しているが、突発性血小板紫斑病と閉塞性肺疾患を患い、通院している。

今は、兄の娘(孫)と遊ぶのを生きがいにしているので、孫が中学に行くまでは死なないと宣言している。

俺もたまに電話して様子を確認している。

最近の母の目標はブログを始めたいそうだ。

たぶん簡単にはいかないと思うので俺が1週間位つきっきりで教えるつもり。

まだまだ元気でいて欲しいと思う俺でした。

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